今年の8月に岩手県安比高原に、イギリスに本部があるインターナショナルスクールのジャパン校が開校する、とテレビの番組で伝えていました。イギリス人の校長先生は「世界に通用する人材を輩出する」と謳っていましたが、私の疑問は「なぜ安比高原に?」。その答えは、模擬授業で理解できました。
学校で生物の授業を行うのはあたり前ですが、この学校では、室内で生物学を学んだあと、すぐに野外に出て、実際に生き物はどこにいるのか、どのような生態をしているのかをつぶさに観察するのです。理論と観察の合体。イギリスはもともと野外教育にも力を入れている国で、この学校もスポーツや登山なども含め充実した文武両道のカリキュラムを組んでいるといいます。年間1000万円もする学費にも関わらず、開校が決まってから、アジアの富裕層からの入学希望が絶えないというのも納得しました。
比較して日本の教育。私は那須で、公立や私立学校の子供たちに自然体験を指導していますが、学校の日常での自然体験の乏しさに唖然とすることがしばしばです。そこにきて文科省は、生徒一人にPCを支給するプログラミング教育に力を入れ始めています。地元の小学生も「那須平成の森」にiPadを持ってきて、森のどこに花が咲いていたとか、楽しそうに入力している姿を見かけます。
大切なことは、PCに入力することではなく、その生き物がどのような生態をしているのかを観察し理解することではないでしょうか。解剖学者の養老孟司さんも近著「子どもが心配」の中で、SNSやネットゲームに依存している子供たちへの危惧と本来の学びについて持論を語っていますが、私も全く同感です。
「あらゆる教科の基本に自然科学を置くべき」。「教員養成課程では自然科学を必須にしてもらいたい」。私の持論です。先生自身が虫嫌いで、「那須平成の森」に来て「キャーキャー」言っている姿がどんなに情けないか?
「センスオブワンダー」も博物学への知識欲も、幼い頃から自然の中に身を置いているからこそ発現する関心であるはず。自然科学がなぜ重要なのかは、人間以外の生き物の生態を学ぶということは人間という生き物を学び、生きていくことに最も重要な判断力や共感力を育むことでしょう。
自然の中にいると、自ずと自分の存在意義を問い、やがて心は他者への関心に動きます。自然の摂理を理解することは、地球のメカニズムを知り、我々人間の命を守ること。イギリスやドイツなど西欧諸国はこの考え方を根底においた教育を行っていると聞きます。
日本では、私たち世代の小さい頃は、まだ日本全体があらゆることに発展途上だったために、身の回りには雑木林や田畑がたくさんあり、外で遊ぶことしか選択肢がなかった時代でした。しかし、現在は、日常で外で遊ぶ子供を見かけることはほぼありません。加えてコンピュータゲームの氾濫です。
私たち大人が意識的にお金をかけないと、子供たちに自然を学ぶ場を提供できない時代なのです。自然体験の世界でも、今後、この格差はどんどん進行するでしょう。私たちがJEEFをつくった理由の一つに、子供たちへの良質な自然体験の提供がありましたが、30年以上経ても状況が好転していないということは、私たちの努力が弱かったということなのです。文科省はこの状況をどう見ますか?日本の教育はどこへ向かおうとしているのでしょうか。