こんにちは。インターン生の島津です。
「市民のための環境公開講座パート3」第2回が11月8日(火)に開催されました。
今回は東京都市大学特別(終身)教授である涌井史郎先生をお招きし、『自然に寄り添う日本の英知に学ぶ』と題しご講演いただきました。
先生は園芸の専門家として、実物の土地と向き合い環境問題に考察を重ねてきました。
土地とにらめっこ
まず環境問題を考える上で、現実に根差したものの考え方が重要だと先生はおっしゃいました。
「おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へせんたくに」
日本最古のESD(Education for Sustainable Development=持続可能な開発のための教育)がこの一文で表されていると言います。言い換えれば日本人の自然観が上手く表現されています。
おじいさんはしばかりに出て行って、山の自然環境が成長しすぎるのを止め、作物の収穫に最適な環境を保っているのです。自然の恵みを受けるならば、そこに手を入れて調整をする。
これが日本最古のESDと考えられる所以です。
「いなし」の知恵
私はこれを聞いた時に意外だと感じましたが、日本の国土の雨水の賦存量は極めて少なく、東京都民一人当たりで見れば、ドバイのそれを下回るそうです。急な河川の勾配は洪水のリスクをもたらし、1日1m以上の積雪や地震も頻発する。私たち日本人の祖先がそんな自然から学んだことは、自然に逆らわないこと。つまり「いなす」ことです。
思想としてだけではなく、現実的に自然と共生するという意識を持っていました。それが日本特有の「里山」というシステムです。
奥山・里山
西洋的な感覚では主に、構造物や建築術、文明的なものに重きが置かれています。旧市街と呼ばれるところは城壁に囲まれていることが多く、土地の環境を生かした造りというよりはむしろ、人為的な構造物に囲まれたものになっています。
「里山」が世界に類型を見ないシステムであり、自然を神様の領域・人間の領域と割り切って考えていることも特徴の一つです。例えば神社の奥社を大切にすること。木曽の檜山ではある作法に則って木を切るなど、ある種、神様を相手にしているような部分があります。
雑木の里山では、株をまず残し幹を切る、そして落ち葉は刈敷農法(たい肥)として利用します。このように燃料であり肥料でもある里山は、農耕と極めて密接に結びついています。そしてこれが持続的な・再生可能な循環を生み出し、日本での「生物多様性」の根源だと先生はおっしゃいました。
良い戦国武将こそ良い造園家
造園家(自然を理解している)でない戦国武将は決して生き残れなかったという、ユニークな視点で先生はお話します。戦術的には、矢合わせの際には風を読めなければならず、行軍の際には気候・地形を的確に把握している必要がありました。
また、城下町経営という点ではもっと直接的に、造園家としての資質が問われることになります。
戦で勝敗を決する要因は何でしょうか。
「勢い」を制する者が戦を制するといいます。
武田信玄の「信玄堤」も、自然を相手に体現したものでした。川の水量はコントロールできずとも、水の勢いは緩めることができる。これが甲州流治水と呼ばれるものの起源です。
他にも加藤清正は「鼻ぐり井出」と呼ばれる仕組みと土木事業で、洪水を防ぐシステムを構築し、良質な農地の確保に成功しました。
下山の思想
定住革命から農耕が始まり、産業革命以降は工業化が進んできました。次なるものは、環境革命ではないかと先生は考えられています。
産業革命以後は、身の回りのものをいかに資源化し、消費できるかが命題でした。それにより消費社会が成り立ち、成長曲線を描き続けてきました。それが今岐路にあり、限界を知ることが必要になってきました。それが「下山の思想」と先生は呼ばれていました。自然との共生を再帰的に考える必要があるのではないでしょうか。
~質疑応答を紹介します~ 涌:涌井先生 質:質問者
質:荒れた公園を再生させるために、いくつかアドバイスを頂きたい。
涌:生物は繋がりを持って生きていくという原則を基に、生物がすめるコアと周辺のバッファを作ることが大切。例えば、多摩川という核と、緑地という周辺を作り生活の場に結び付けている。さらにかつての農業用水路を残し活かしている点も非常に大切。
まとめ
定住革命から産業革命、そして次は環境革命の時代がくると先生はおっしゃいます。
そこで、来る2020年オリンピックで我々は何を訴えかけていくのか。一つは江戸/東京のレガシーを伝えていくという考えもあり得るでしょう。それは過密な人口でありながら衛生を保っていた、自然と共生していた考えを世界に伝えていくことです。
CSOラーニング生 島津