文:藤原 誉 田歌舎代表
虫が嫌いな子ども、草地に足を踏み入れることが出来ない子ども、自然の地面に腰を降ろすことが出来ない子、落とした食べ物を拾い上げて食べることが出来ない子ども、「**が嫌」、「**したくない」という言葉だけ大きな声が出る子、それらのすべての子どもは、本物の良さ、魅力を知らない子どもたちだと私たちは捉えている。
頑なな子どもほど、彼らの想像を超える体験を与えないとその閉ざされた心は閉じたままだ。なんちゃって的な体験では、そんな子どもたちは大人を斜に見ることを止めない。だけど彼らの想像を超える体験、楽しさ、驚きを与えることが出来れば、次第に、そして一日の最後にはすっかり心を開いてくれるようになる。たったの一度でも自然の豊かさや楽しさ、あるいは迫力、凄さ、あるいは美味しさなどに心躍り、心を開く経験をさせることは本当に大切なことだ。たった一日の思い出が子どもたちにとって一生の様々な考え、判断に影響することも多いのだから。逆にこのような経験が無く成長したならば、虫や菌やダニや、あるいは草や泥やクモの巣やといった自然の不快な部分しかクローズアップできない大人に育ってしまうだろう。自然は不快な場所、怖いところ、近づきたくないところ、そんな価値観のまま親となって、さらに自分の子どもを自然から遠ざける。恐ろしいことだ。地球破壊をもくろむ宇宙人を育てているに等しい(笑)。だからこそたったの一度でもリアルな自然体験は大きな意味があるし、それを何回も経験して育つ子はきっと私たちと同じ価値観を共有する、良い意味での日本人らしい日本人に育ってくれることだろう。田歌舎は参加者の想像を超える様々なリアルを、体験や食事、あるいは私たちの働く姿によって魅せることをミッションとしている。
遊・食・住+自然エネルギー自給的な暮らしが見えるお店
田歌舎の建物はすべて私たちスタッフのセルフビルドだ。そして1ヘクタール以上の農地をスタッフ全員で耕作し、米、野菜を通年自給する。さらにスタッフの半数以上が狩猟免許を持ち、それ以外のスタッフも解体の技術を有して、年間100頭以上捕獲する鹿、猪といった大型の狩猟獣や、家畜の鶏、合鴨を捌く。そんな生きる力に溢れたスタッフたちが年間を通してたくさんの参加者をお迎えしている。ある時はラフティングガイドとして、ある時は農業や林業体験のインストラクターとして、ある時はハンターとして狩猟体験のガイドをするなど様々な顔を持っている。田歌舎に来て、周辺を散策すればそんなスタッフの自給自足の日常の仕事ぶりを垣間見ることが出来、すぐに参加者、お客様にとってここがリアルに溢れた場所であり、その魅力を(時折ぎょっとする人も(笑))感じてもらえると思っている。
たとえば鶏の解体体験鶏捌きの平均的なセーフティートーク
(体験を通して)
「皆が美味しく食べる鶏肉。でもその鶏は誰かが育て、誰かが絞め、解体している。牛も豚も同様だ。人が何らかの肉を食べるための当たり前な営みだけど、それをまったく見たことも感じたことも無いっていうのは何かおかしくない? みんなはスーパーで買ってくるスライス肉やブロック肉に命を感じていますか? でも元々こうやって生きていたんだよ。生き物を殺し、解体するという作業は、歴史的に見ればつい近代までは殆どの人が目の当たりにしていたことだし、地球的な規模で見れば、今でも自分たちで育てて、殺して、食べるということを日常的な営みとして行っている地域のほうが多いはずだ。それをしないのは現代の先進国の都会だけだ。つまりこのような体験をしたことが無い君たちは決して普通の人ではなくて、実は歴史上においても地球上においても特別な人なんだよ。
生き物を殺して食べるという事。今日はこの経験を通して本当の意味での「頂きます」を実感してほしいし、また体験後のBBQを通してその美味しさを感じてほしいと思います。ただし、体験中に気持ち悪くなったりすることがあればその時はその場をそっと離れてください。また大丈夫になったら戻ってきたらいいし、駄目だったらそれもOK。最後まで離れていても構いません。人間には様々な仕事があって、みんなが出来る必要もありません。自分に向いた何か他のことがあるはずだし、この体験が苦手な人がいることは当たり前です。だから苦手であることは自分自身でも否定しないでください。一番大切なことはこの鶏を食べるという経験です。みんなで捌いてくれた鶏、そのことを肌で感じるだけでもその人にとっては十分な経験となるはずです。OKですか! 最後は美味しく食べるぞ!」
いつでもこんな感じのお話をしてから体験は始まる。
(生きた鶏を前にして)
1 鶏を籠から引きずり出して羽ずつ束ねてくくりつける
暴れる鶏に怯んで手を離すやつがいる。
「こらこら鶏より君のほうが力は強いんだから、ビビらんとしっかり持て。突つかれても怪我なんかしないよ。」
さまざまな感嘆の声、奇声?が上がる。
いよいよリアルな体験が始まり、子供たちも間もなくアイスブレークしてくる。
2 吊るし木に鶏を掛け首を包丁で切り、放血する
やんわりとしか包丁に力を込められない。
「おいおい、そんなそっと撫でたくらいで動脈切れてたら生き物生きていかれへんやろ。もっと力強く切りなさい。」
皆の目つきが真剣そのもの。1羽ずつ命が尽きるごとに何かを得ているのだろう。このあたりではふざける子供は殆どいない。
3 放血が済んだ鶏を70度のお湯につける。
熱い熱いと騒ぐ奴がいる。
「天ぷら屋は200度の油に指先突っ込むんやで。70度くらいで火傷せえへん!我慢せい!」
参加者の頑張りが見えてくる。やり遂げたい。そんな気持ちが伝わってくる。
見守る子供たちも注目している。俺がやりたかったな~、とかいろんな気持ちを抱いているようだ。
4 みんなで毛を毟る
まだまだ毛が残っているのに、もういいですかと言ってくる。
「君、スーパーで売っている鶏肉にそれだけ毛がついてたら怒らへんか。せめて自分たちで食べてもいいと思えるぐらいきれいにしてよ。それが人の手の仕事やで。」
私たちが見せる手際良いお手本に対して、子供たちが思いの他苦労する様子がいつも見られる。沸き立つやる気がしぼんで弱気になる子、あるいはくじけずに頑張る子、どちらもいるが、どちらでもいいことだ、と思う。
リアルが伝えるメッセージ
解体作業については、私たちの作業の見学にする場合が多いが、少人数の場合は実際に包丁を使って解体の体験をしてもらうこともある。実際に見たことのある胸肉やもも肉、ささ身や砂ズリなどが分かる都度に歓声が上がる。エサ袋や卵管など始めてみる臓器などに驚き、たくさんのQ&Aを子どもたちと繰り返しながら私たちは手際よい作業を見せつける。この辺りでは、途中離れていた子も興味の方が勝って戻ってくる場合も多い。
そうして解体された鶏は最も重要な「食べる」という体験を通して、その新鮮な鶏肉の美味しさに驚き、そして食べ物への感謝の気持ちを育み幕を閉じる。今までにこの体験を小学生から大学生に対して500人以上に行っていると思うが、実は今まで鶏を食べられなかった子は一人もいない。
年配の方からは、子どもの頃に親がするのを見て食べられなくなったというような、否定的な意見が聞かれることがある。しかし、それは他にいくらでもリアルが溢れていた時代だからこそではないだろうか。未熟な子どもとして心の準備が出来ていない状況で、ワイルドな親やお祖父さんに、乱暴に見せられたことによるショックもあろう。それは今の子どもたちとは明らかに事情が違う。
今の子どもたちは本物(リアル)を深層心理で渇望していると私は考えている。カブトムシであれ、ヘビであれ、ネコジャラシであれ、フナであれ、カマキリであれ、川遊びであれ、山への探検であれ、私たちには溢れていた当たり前のリアルが、現代の都会の子どもたちにはあまりにも遠ざけられているのだから。その結果、見たことも無い虫などの未知な物には恐怖が育ってしまっているが、食を通して身近にある食肉のリアルに対しては、より好奇心をそそることだろう。
鶏の解体体験を通して伝えるメッセージには、そういった無知に対する不安や恐怖に打ち勝つ勇気付けも含むことが出来る。
自分自身も地球に暮らす一つの生き物としてどうあるべきか、ということに目を向けることで、成長できることがどれ程あるか想像に難くない。たとえば鶏の解体体験というたった一つのリアル体験でさえ、大きな大きな教育的効果を持たせることが出来るはずだ。
地球のこどもとは
『地球のこども』は日本環境教育フォーラム(JEEF)が会員の方向けに年6回発行している機関誌です。
私たち人間を含むあらゆる生命が「地球のこども」であるという想いから名づけました。本誌では、JEEFの活動報告を中心に、広く環境の分野で活躍される方のエッセイやインタビュー、自然学校、教育現場からのレポートや、海外の環境教育事情など、環境教育に関する幅広い情報を紹介しています。