文:玉井 夕海(『渋さ知らズ』 ヴォーカル)
いつもではありません。でもとても多くの時間。私は、つまらない人間です。まるでこの世界に生きているのは、自分を含め、人間という生き物だけであるかのように振舞っている。
ガラス瓶に挿さった花
ここは地下にあるバーです。まだお客さんは誰もいない昼間のカウンター、その上。いま目の前に花があります。水の入ったガラス瓶に二本の茎が挿さり、一本の茎には6本から7本の枝分かれした茎、その先には花が二つと葉が一枚。葉はくるりとカールを巻いています。
花は、薄いピンクの花弁をまず左右上に一枚づつ。そこに重なる形で上に2枚と下に1枚、滲んだ黄色を下地に濃い茶の火花のような模様を刻んだ別の花弁が艶やかさを添える。
誰もいないカウンターの上で電灯の光を浴びたこの花の名前を、私は知りません。こうして見つめてようやく知る、葉と花弁の数や形であって、日頃は、ああ綺麗だな。とやり過ごす。かろうじて立ち止まる力を失くさずにいられるお蔭で、私は私を取り巻く自然への感謝から完全には切り離されず日々を暮らしていますが、それは子どもの頃に出逢ったここではない遠い森に暮らす小さな生き物の体温を覚えていて、その心臓の小さな振動を思い出すと呼吸が深く戻っていくからです。
小さな心臓の鼓動
14歳の冬。一匹の冬眠鼠(やまね)が私の掌の上で眠っていました。その生き物は手足をきゅっと胸の方へ寄せて丸まり、長い尻尾で自分を包むように縮こまって、動きません。あまりの嬉しさに私の心臓もどくどくと波打って身動きが出来ないでいると、生きてるの? と傍で友だちは羨ましそうにその毛に覆われた小さな丸いもの覗き込んで言いました。
うん。私はそれを起こさぬよう声を出さずに頷きました。冬眠中の為体温を極度に下げて冷たいものの、小さな心臓の鼓動と呼吸で微かに揺れる体は、その命が続いていることを伝えていました。
「明日は、自由に動く日にしよう。どんなことがしたいか相談してみてください。手伝うことがあればします」
前日。キャンプのリーダーだったヒゲのおじさんがそう言ってくれたので、私は冬眠鼠を探しに行きたいと伝えました。雪が深く積もった清里の森に建つロッジには日ごろ都会に暮らす子ども達が集まっていて、冬の森のことを知るためのキャンプが開かれていました。
たいして自然には興味のなかった私でしたが、偶然写真集で見つけたその小さな生き物に強く惹かれ、何としても逢いたい一心でその方法を探していました。
「図鑑に描いてあったんです。ネズミの糞は先っぽがとんがっているけど、冬眠鼠のは丸いって。昨日あの山小屋で見つけた糞は丸かったのです。布団を引き裂いていいですか。表に小さな穴が開いていました。あの中で眠っているかもしれません。時々、雪の中に穴を掘らずに布団で眠ってしまうのもいると、それも図鑑に書いてありました。」
冬眠鼠がのこしてくれたもの
こうして久しぶりにあの頃のことを思い出すと、14歳の私には小さな冬眠鼠の心臓の音が聴こえていたのかもしれないとも思います。その振動を頼りに私はあの命に辿り着いたのかもしれません。
あの時、私はとても確かな気持ちであの場所に向かっていました。その確かさがどこから起きるものなのかずっと説明がつかなかったけれど、振動を掴まえていたのだと考えると合点がいきます。
あれから25年が経ち39歳になり、私はすっかりつまらない大人になってしまいました。
森の声を聴くよりも前に、傍にいる人間たちの悲しみに心を奪われて俯いて、動けなくなってしまうこともたくさんあります。けれどもそうして胸の深いところへ沈んでいくと、丸まった冬眠鼠がふわっと掌に現れて温かくなり、小さな命があの日残していってくれた心臓の鼓動で微かに私も揺れて、静かになります。
たった5年の命しか持たずに生まれて来る冬眠鼠はとっくにこの世を去ったはずだけれど、この掌ではあの小さな毛むくじゃらの体が今も春が来るのを待ちながら眠っています。
地球のこどもとは
『地球のこども』は日本環境教育フォーラム(JEEF)が会員の方向けに年6回発行している機関誌です。
私たち人間を含むあらゆる生命が「地球のこども」であるという想いから名づけました。本誌では、JEEFの活動報告を中心に、広く環境の分野で活躍される方のエッセイやインタビュー、自然学校、教育現場からのレポートや、海外の環境教育事情など、環境教育に関する幅広い情報を紹介しています。