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1983年6月から翌年9月まで、私はアメリカのシアトルにあるワシントン大学に客員研究員として環境問題の勉強に行きました。新聞社から派遣される形でした。そこで旧知の冒険家・植村直己さんと出会ったのです。
植村さんとは学生時代からの知り合いでした。明治大学山岳部で私より2年上です。日本山岳会の学生部というところでは大学の区別なく楽しい付き合いがありました。卒業後、植村さんはアメリカからヨーロッパへと貧乏旅行に出かけました。私は読売新聞社に入って記者活動です。
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法橋店に向かう植村直己さん(植村直己記念館ホームページより)
1972年、北極探検ということで、読売新聞社は日本大学山岳部の遠征隊に同行し、植村さんは単独で北極点に挑みました。はからずも日大隊と植村さんとの競争という形になり、マスコミに面白おかしく取り上げられたりしました。私は読売新聞からの同行記者という形で植村さんと同じく北極点を目指しました。
北極遠征後、植村さんは広告会社からの多額の借金を返すために連日講演をこなさなければならなくなり、ついにくたびれ果ててミネソタ州の犬ぞり学校に逃げてしまいました。当時、アメリカにはシアトルに強い登山家がそろっていて、植村さんは月に一度ぐらいシアトルに来ていました。来るたびに私たちは夜遅くまで飲み明かしたものです。
そんなある夜、植村さんはこう切り出しました。
「俺は単独で南極横断をしたい。それが終わったら帯広に自然学校を作る。帯広市長と約束した。お前も手伝ってくれ」。
私は「会社を辞めるわけには行かないけど、全力で応援します」と答えました。
植村さんは1984年1月、南極の事前準備もかねて冬のマッキンリーに出かけたのですが、シアトルを発つ前の晩に二人で明け方まで飲みました。
植村さんは見事に頂上に立ったのですが、下降中に遭難し、それきり姿を消してしまいました。それ以後、私は植村さんの遺志を強く意識するようになったのです。
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川嶋直さん近影
ちょうどその頃、キープ協会から川嶋直さんが私を訪ねてこられました。川嶋さんはキープ協会に自然学校のようなものを作る構想をたてていたようでした。川嶋さんは帰国後、私に厚い手紙をくれました。それを読んで私は、帰国したら川嶋さんと一緒に自然学校を作ろうと思いました。
それが日本環境教育フォーラムを設立するきっかけとなったのです。以後、私は日本中に自然学校のネットワークを作りたいと考えるようになりました。