スコッチウイスキーやジャパニーズウイスキーには、ほのかに、あるいは時に強烈に、煙の匂いが漂う。スモーキーフレーバーと呼ばれる香りだ。
発芽させた大麦を乾燥する際に、燃料として使われるピート(草炭・泥炭)の煙が麦芽に染み付いたもので、「正露丸みたいだ」と顔をしかめる人もいるが、いったん好きになると癖になる香りであることは間違いない。特に有名なのは、ボウモアやラフロイグといった、イラ島のシングルモルト・ウイスキーだ。
未経験の方には、ぜひ一度お試しいただきたい。
ピートとは、湿原(ピートランド)を覆うミズゴケやヘザーなどの低木、そしてアイラ島のような小さな島々の場合には、強風で吹き飛ばされてきた海藻などが降り積もり、ゆっくりと炭化したものだ。
1年に1ミリ程度しか出来ないので、本来は貴重な天然資源なのだけれど、なにしろスコットランドには、こういう湿原が約200万ha(陸地の20%以上)もあったため、いくら掘っても掘り切れないのではないかという危険な思い込みがあった。そのため、燃料用や園芸用に自由自在に掘り取ったり、農地や牧場あるいは人工林を造成するために水を抜いてしまうなど、大規模な破壊が進んでしまったのである。
こうした流れに、今、急ブレーキがかけられつつある。
ピートランドは、実は、CO2の重要な貯留場所である。世界全体でピートランドが占める面積は3パーセントにすぎないけれど、そこに貯留されているCO2は、全土壌炭素の40%以上にものぼるのだ。
ところが、ピートランドが傷ついたり、水が抜かれたりすると、微生物によるピートの分解が急速に進む。貯留どころか、反対に排出源になってしまうのだ。傷ついたピートランドからのCO2の排出量は、全世界の人由来のCO2排出量の、実に6%にものぼるらしい。これを止めない限り、温暖化に歯止めがかからなくなってしまうのは、目に見えている。
そういうわけで、英国では、園芸用や燃料用など、代替品があるものについては可及的すみやかに禁止するという流れが始まっている。ただし、ウイスキーの香りの代替品はまだ存在しない。ウイスキー用のピート使用量は、園芸用などに比べると微々たるものにすぎないのだけれど、もし禁止の流れがウイスキー用にも及べば、伝統的なウイスキーの香りが消滅してしまう恐れがある。
しかし、である。
考えてみれば、健全なピートランドでは、1年に1ミリのピートが生み出されているのだ。だとすれば、ウイスキー用に掘り取るピートと同量のピートが、毎年生み出され続ける面積のピートランドを再生・保全していけば、その利用は持続可能なものになるのではないか。
例えば、毎年1平方メートルの泥炭地を50センチの深さまで掘ったとしよう。50センチということは、500年分のピートということになる。つまり、500平方メートルのピートランドを再生・保全することが出来れば、この利用は持続可能なものになるはずだ。
サントリーグループは、スコットランドに5つの蒸留所を経営している。
すでに名前を出したアイラ島のボウモアとラフロイグ、ハイランド地方のアードモアとグレン・ギリー、そしてローランド地方のオーヘントッシャンだ。
それらの蒸留所と日本の山崎、白州で使っているピートの使用量に、上記の考え方を当てはめると、1300ヘクタールのピートランドを再生・保全していけばいいという計算になる。
そこで我々は、2030年までに、1300ヘクタール、2040年までにその2倍(その時点でのピート使用量を基準として、その2倍)のピートランドを再生・保全することを世の中に約束し、この活動に「ピートランド・ウォーター・サンクチュアリー」という名前を冠して、スコットランドの環境省や林野庁(に相当する組織)と協働し、再生活動を開始した。
ピートランドは、ウイスキーにとってだけでなく、水辺の生き物たちの多様性を守るためにも重要な場所である。もし多くの蒸留所が、我々同様の活動を始めてくれれば、スコッチウイスキーが売れれば売れるほど、湿原が再生・保全されるという美しい流れが生まれる。
湿原という、生物多様性にとってもとても重要な生態系の未来を守るために、多くの仲間たちに声をかけていきたいと思っている。